歴史エッセイ集「みちのく福袋」
第2章 第2章・国見八景
○第四景「北山五山」
鎌倉五山とは、建長寺・円覚寺・
寿福寺・浄智寺・浄妙寺。京都
五山といえば、天龍寺・相国寺・
東福寺・建仁寺・万寿寺で、その
上に南禅寺があった。
五山の由来は祇園精舎・
竹林精舎・大林精舎・誓多林
精舎・ならんだ那蘭陀精舎と
いう、天竺(インド)五山に
まで遡る。中国では、径山
興聖万寿寺・阿育王山広利寺・
大白山天童景徳寺・北山
景徳雲隠寺・南山浄慈報恩
光孝寺となる。
まあ、主要な5つの禅寺と
いったところだろうか。五山
の僧は漢詩をよくした。
ひっくるめて五山文学と言った。
仙台藩祖・伊達政宗も、禅と
漢詩の素養を身につけて育った。
仙台開府と共に、青葉城北部の
北山丘陵に五山を設けた。
私が住む所は伊勢堂山中腹
だが、北山丘陵はその隣に
位置している。五山は全て
臨済宗の寺で、遠山覚範禅寺・
慈雲山資福禅寺・無為山東昌
禅寺・松蔭山光明禅寺・
當牛山満勝禅寺である。
鎌倉時代の伊達家は、
伊達郡桑折(福島県)を本拠に
していた。初祖とされる朝宗
(ともむね)は、満勝禅寺に
葬られている。4代政依
(まさより)の頃、東昌・光明・
満勝・観音・光福の五寺を、
伊達五山とした。
16代輝宗は、1572
(元亀3)年米沢(山形県)の
地に資福寺を再興し、虎哉
宗乙(こさいそういつ)和尚
を招いた。虎哉は美濃国
方県郡(岐阜県)の生まれ。
甲斐国(山梨県)で武田信玄
の師であった快川紹喜
(かいせんしょうき)の、
二甘露門(高弟)の一人だった。
快川は織田信長の恵林寺焼き
討ちに際し、「安禅必ずしも
山水をもち須いず。心頭を
滅却すれば火も自ら涼し」
という名言を残し、炎と共に
入寂した傑物である。
虎哉は輝宗の子・政宗を、
6歳の頃から40年あまりの
長きにわたって、禅と学問に
よって鍛えあげた人生の師で
あった。覚範寺は1601
(慶長6)年、仙台開府と共に
虎哉によって開山された。
資福禅寺は、別名「あじさい寺」
と言われている。山門から本堂
まで、石段の両側を紫陽花が
埋め尽くしている。梅雨時の花
の盛りに訪れると、普段は俗塵
にまみれている心も、詩情の
ゆらめきに洗われる事になる
だろう。
17