歴史エッセイ集「みちのく福袋」
第2章 第2章・国見八景
海国兵談は板木召し上げ。本人
は一切の活動を禁じられて幽閉
の身となった。
「親もなし妻なし子なし板木
なし 金もなければ死にたく
もなし」と、六無斎(ろくむさい)
と号した子平は、和歌を唯一の
気散じとしながら、1793
(寛政5)年6月21日、56歳
で病没した。
しかし子平の著作は、時代の
情勢に呼応して復刻される。
そしてこの書の重要性を認識
した人物が、長州(山口県)で
著作を講義することになる。
松下村塾の吉田松陰である。
子平は国防の先見者として、
伊東博文ら松下村塾出身の
明治政府の元勲らによって
尊敬され、名誉を回復される
事になるのである。
ところで龍雲寺には、もう
一人「奇」なる人物の墓が
ある。名を細谷十太夫直英と
いう。彼は1844(弘化元)年、
伊達郡(福島県)細谷村に生ま
れた。仙台藩大番士で食録は
50石。色白の小男ながら、
剣槍弓銃術などの武芸に長じ
ていた。時は幕末・戊辰戦争、
奥州白河小峰城攻防戦。24歳
の細谷は、安達・信夫二郡
(福島県)のやくざ衆80名
あまりを従えて「衝撃隊」を
編成し、官軍営舎を次々に
夜襲した。
黒装束に太刀という姿から
「鴉組」と称され、30余戦
すべてを成功させ、官軍の心胆
を寒からしめた。戦いそのもの
は銃の威力に勝る官軍が勝利
したが、時の仙台藩主・伊達
慶邦は、鴉組の活躍を愛で、
細谷に武一郎の名を与え、
200石を加増した。
細谷はその後、1877
(明治10)年に勃発した西南
の役に、陸軍少尉として参戦。
1894(明治27)年の日清
戦争にも、千人長として参戦
している。刀と銃弾の修羅場
を、幾度もくぐり抜けてきた
根っからの武人だった。
その細谷が、晩年頭を丸め
て龍雲寺の住職になるので
ある。彼は林子平をこよなく
尊敬していたという。子平が
火種となり、吉田松陰が点火
し、動乱の時代が始まった。
その渦中を、細谷は戦場で
生き抜いてきた。戦さゆえ、
人を斬った。その手ごたえは
生々しいものだろう。戦死者
の霊よ安らかにと、祈りたく
もなるだろう。細谷は今、
龍雲寺の境内で「細谷地蔵」
として墓参者に微笑みかけて
いるのである。
16