歴史エッセイ集「みちのく福袋」
第2章 第2章・国見八景
龍雲寺は仙台開府から間も
ない1606(慶長11)年に、
輪王寺9世久山和光和尚の
隠居寺として開山したのが
始まりである。ここが林家
の菩提寺であった。林子平
友直は、1738(元文3)年
6月21日、幕府旗本
620石の岡村源五兵衛良通
の次男として、江戸小日向
水道町に生まれた。八代将軍・
吉宗の時代である。子平3歳
の時、父が刀傷事件を起こ
して浪人となり、医者である
叔父の、林従吾に引き取られた。
子平には6歳年上の姉・
奈保(なほ)がいた。奈保12歳
の時、仙台5代藩主・伊達吉村
の侍女になる。やがて吉村の子
で6代藩主・宗村の側室「お清
の方」になり、藤五郎(土井左京
亮利置)と、静姫(松江城主・
松平出雲守治好室)の一男一女
を産むに至る。子平の兄・友諒
(ともさと)は150石で仙台藩
に召しかかえられ、林家は仙台
へ移住するのである。
子平は頭脳明敏にして、健脚
な旅好きだった。北海道から
九州まで、下駄ばきで闊歩した
という。乗馬が得意で、武芸で
精神を磨く好奇心旺盛な侍だっ
た。
長崎へは3度遊学している。
最初は1775(安永4)年の
事で、子平38歳。通詞・松村
元綱所蔵の「世界之図」を書写
している。子平はここから国際派
へと脱皮する。この年の前年、
前野良沢・杉田玄白による
「解体新書」が刊行されている。
子平はオランダ人・ロシア人
と積極的に交流し、海外情報を
吸収していった。その知識と
思想の集大成が、「三国通覧図説」
である。ここで彼は、蝦夷(北海
道)・樺太・千島列島は、日本の
領土であると主張した。だが
この主張は誰にも理解されな
かった。当時これらの地域は、
不毛の外国と観るのが常識だった。
もし文句があるならば、大日本史
を編纂した水戸黄門氏にでも
言ってほしい。
三国通覧図説は幕末、フランス
語とドイツ語に翻訳される。
アメリカとの外交交渉では、
小笠原諸島が日本領である証拠
としてこの本が示された。時代
の常識などというものは、いつ
の時代でもあまりあてになら
ないものらしい。
子平はさらに、「海国兵談
(全16巻)」を著す。彼はここで
日本の海防を説き、砲台を設置し、
造艦・操船・練兵を行う海軍の
重要性を説いた。極めて先見的
な兵学書だった。
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