舞う蝶の果てや夢見る ―義経暗殺―
第10章 富士川の水鳥
頼朝の本陣は、八幡神社の奥にあった。夜叉丸と宮毘羅は、頼朝警護の雑兵になりすますと中へ入っていった。
陣内に入ろうとする義経は、呼び止められ居合わせた土肥実平に自分の身を名のっている。
報告を受けた頼朝は、しばらく思案している風に見えた。
「それは、おそらく奥州にいたという九郎殿でございましょう」と側にいた佐々木盛綱が訳知り顔で答えるのが聞こえた。
頼朝は不快そうであった。
「妾腹の子じゃ。わしの母は熱田神宮宮司藤原季範の娘由良御前で正室である。それをあやつの母常盤は父の寵愛をほしいままにし、母は悲しみにくれて里へ帰った。絶世の美女とはいえ義経の母は九条院多子の雑仕女ではないか」
吐き捨てるようにそう言うと掌で顎を擦りながら辺りを苛々した足取りで歩き始めた。
――頼朝は弟を捨てた
夜叉丸にはそう聞こえた。同時に弟の覚慧を思い浮かべた。この世にたった一人のかけがえのない肉親である覚慧は、今宋に渡るべく栄西禅師の下で修行している。母親が違えば、さらに共に暮らしていなければ、やはり頼朝のように考えるのだろうか? 夜叉丸には想像がつかなかった。
彼には誰ひとりとして、本当の家来はいない。皆、頼朝を旗印にして、集まって来た者達だ。何よりも参集した者達も元を正せば平氏である。平将門とその一党である義澄の流れは坂東八平氏と呼ばれる上総、千葉、三浦、土肥、大庭、秩父、梶原、長尾に分かれた。都の平氏の流れとは違う官位をもたない平氏。
頼朝は、後ろに控えた舅の北条時政に言い訳するよう語りかけながら考えをまとめようとしている。夜叉丸には、そう見えた。
「まして、……」と頼朝は幾分大声で吐き捨てた。
まして、九郎は、軍馬の宝庫である奥州から来たというのに軍勢も引き連れずわずか数騎で、その上に富士川の戦いにも遅参してくるとは何事ぞ。兄の立場を考えてもみよ。今さら駆けつけた義経に弟面されたくもないと……
頼朝が、奥歯を噛み締めている。
考え抜き相当な時間が経過した。それは夜叉丸を不安にさせた。
「九郎殿、ご案内申し上げまする。こちらへ」
義経は細かい気遣いを見せる盛綱に案内されて、広い庭の真ん中に通されてきた。彼の目の前には、生来備わっている源氏の嫡流としての威厳と尊厳を併せ持つ頼朝がいる。義経が感激に咽びながら平伏するのを夜叉丸と宮毘羅は見逃さなかった。
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