舞う蝶の果てや夢見る ―義経暗殺―
第2章 平氏の剣
「そうとなれば、夜叉丸! 祇園社へ行こうぞ」
鬼姫は木剣を片手に勢いよく縁から庭へ飛び降りた。
「夜叉丸? 松寿丸であろう、扇寿殿」
忠度が怪訝な顔をして扇寿姫を見ると、鬼姫が忠度の方に笑って振り向いた。
「わらわが名づけた。こやつは今より夜叉丸じゃ」
ちょうど扇寿姫が松寿丸の近くまで駆け寄ったとき、俺は松寿丸だと叫ぼうとして、彼は言葉を呑んだ。権蔵が急に意識を失い倒れたのだ。今までの無理がたたったのと緊張が一遍にほぐれたのであろう。
「権爺ィ!」
権爺ィ! 目を覚ませ。
松寿丸兄弟は何度も権蔵を揺さぶって呼んだ。
「忠義の者である。柚木の兄弟よ。心配するでない」
忠度はそう言い残すと配下の者に後を命じて辞した。
鬼姫がことあるごとに夜叉丸、夜叉丸よと呼ぶためにいつしか弟の幸菊丸さえも夜叉丸兄さんと声をかけてくる始末であった。最初はその呼び名に食って掛かっていたが、鬼姫に根負けしてしまった。
しかし、実を言えば松寿丸改め夜叉丸となったことに抵抗はなかった。心のどこかで新しい生活を始めたいという気持ちが強かったからに違いない。
夜叉丸ら三人は、忠度の屋敷の下屋の一角を与えられた。不思議なことに何が気に入ったのか教経が、毎日訪ねて来る。夜叉丸以上に無愛想な性質だったので、何も語らない時間が続いたが、不思議なことに夜叉丸は、その沈黙が全く気にならない。互いに仏頂面で傍から見るとまるで睨み合っているかのようであるのに権蔵の目は、二人が同じ時間を共有して無言でも充実していることを見抜いていた。あの冬の夜以来冷えかけていた夜叉丸の心を知っているだけに権蔵は、教経に対してそっと手を合わせた。
また、教経にしてみれば、平家の公達として振舞わねばならぬ一門として避けがたい堅苦しさに窒息しそうな自分の屋敷よりも夜叉丸と一緒に居ることの方が、心を解放できたのだろう。ただ、見るからに殺気だらけのその男を弟の幸菊丸は恐がって近寄らなかったが、別段教経は気にする風もなく時々声をかけたりしてきた。そして、何日かに一度は教経のいるのを見計らって鬼姫も遊びにきた。その天衣無縫な我儘ぶりが、やはり幸菊丸は苦手でいつも三人から離れて小さくなっていた。
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