1960年6月15日、いわゆる60年安保のとき、国会周辺を埋めたデモ隊の数は、主催者発表で33万人、警視庁発表で13万人だったとされている。言うまでもなく、史上空前の規模の市民の抗議行動であり、戦後における最大の反政府運動である。死者1名、重傷者43名、逮捕者182名を出した激しい衝突の4日後、6月19日に安保条約は自然成立となったが、予定していたアイゼンハワーの来日は延期となり、岸信介は混乱の責任をとる形で6月23日に退陣を表明した。このとき、朝日の世論調査では岸内閣の支持率は12%まで落ち込み、NHKの世論調査でも
17%にまで落ちている。その1ヶ月前の5月19日深夜、右翼と警官隊を導入しての強行採決で安保承認に及んだとき、岸信介は、1ヶ月後に退陣する羽目になるとは思っていない。6月15日と6月18日、数十万の市民が国会を取り巻いて騒然とする中、岸信介は陸上自衛隊による武力鎮圧を要請する。実現していれば、戦後初めての自衛隊による治安維持出動となっていたが、国家公安委員長と防衛庁長官に反対されて頓挫した。ここで岸信介の命運が尽き、内閣総辞職の決断となる。岸信介の退陣が、アイク来日の中止を契機とする政治であったことは間違いない。つまり、米国政府に見放されたのだ。アイクが6月19日の来日を断念したのは、33万人のデモ隊に恐れをなしたからであり、来日強行によって暴動と内乱に発展する事態を避けたからである。