今回の一連の政治を見て、私は「左翼の壊死」という言葉を思いつき、あてがって使おうとしている。棘のあるドラスティックな言葉だが、意味のある表現を得た気分でいて、ここにもう少し言語的な中味をつけて、人の共感する、説得力のある概念に近づけられないかと思ったりする。さしあたり、それは嗅覚で感じ取った政治現象である。臭いの正体について確信はあるが、こんな臭いだと人に説明して理解を得るのは難しい。一連の政治とは、昨年末の澤藤統一郎の告発事件、宇都宮健児の出馬と社共の推薦、脱原発での一本化の拒否、左翼の怒濤のネガキャンと罵倒、そして惨敗となった選挙結果の全体を指す。これらの政治を演じている集団や組織に対して、私はこれまで、「左翼」という否定的な言葉はあまり使ってこなかった。したがって、「左翼の壊死」という着想と発語に及んだことは、直観的な発見であると同時に、過去からの経験を総括した一つの断念でもある。ここで思い出すのは、あるいは、その嗅覚に作用したかと思われるのは、1992年の関曠野の『左翼の滅び方について』(窓社)である。1991年にソ連邦崩壊があり、当時、論壇で「左翼の滅び方」論争らしきものが微かに流行した。特に人の記憶にとどまる印象は残していない。私自身は、この言葉遣いに積極的に馴染めず、議論に関心を持って接近することはなかった。同じ1992年、なだいなだが一冊の岩波新書を出している。