丸山真男は、古典を読む意味について、自分自身を現代から隔離することにあると言い、現代から意識的に自分を隔離することによって、現代の全体像を距離を置いて観察することができると言っている(丸山真男集
第13巻 P20)。その言葉を思い浮かべつつ、『ソクラテスの弁明』を読み返したが、ページを読み進むほどに念頭に立ち上がるのは現代の問題であり、そこから行間から離れた事案に次々と思考が及び、知りたい対象が浮かんで別の本に手が伸び、ソクラテスの法廷の世界に集中没頭することができない。古典を一人で読むことの難しさ、現代から自己を隔離することの難しさをこの年になって思わされる。この古典から学ばされるのは、「無知の知」などの倫理の教科書に載っている一般論の知識ではなくて、言葉の素晴らしさであり、思惟し弁論する知的主体の瑞々しい弾力である。「アテナイ人諸君」のリフレインに背を押され、理性と情熱の力が充満する言葉の世界に引き込まれ、読んだ者は確実に賢くなる。日本語の文章と弁論の勉強になる。訳が素晴らしいと感じるのは、原文が素晴らしいからだ。思うのはプラトンの天才という問題で、法廷でメモなど録っていないと思われるが、あの長い弁明を物語にし、詩作して構築した記憶力と想像力に驚嘆させられる。プラトンの哲学は、師ソクラテスの死への激憤から出発し、その不条理に復讐を果たさんとするデモーニッシュな意図と目的を持っている。マルクスと同じ。