司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、西郷と龍馬の出会いの場面が感動的に描かれている。元治元年(1864年)の秋、龍馬は30歳で西郷は37歳。場所は錦小路の薩摩藩邸。京の薩摩藩邸は、前年の文久3年、現在は同志社大のある二本松に広大な屋敷が新築されているが、小説では手狭になった古い錦小路藩邸が舞台になっている。そのとき、西郷が吉井幸輔を連れて応接に入った部屋に龍馬の姿はなく、龍馬は座敷から庭に出て草陰で鈴虫を捕っていた。「ほう、鈴虫を獲ってござるか」。縁側で声をかけた西郷に、鈴虫の入った袂を押さえながら龍馬が、「虫籠は、ありませんかネヤ」と言う。これが二人の最初の会話だった。西郷は吉井に「幸輔どん、虫籠は無か?」と指示して納戸から用意させ、龍馬は雑草の蔓を紐にして虫籠を軒端につるし、会談は鈴虫のリーン、リーンという音色をバックにして進められる。会談が終わった後、「あの鈴虫バどうしもそ」と訊く吉井に、西郷はこう答える。「あずかりもンじゃ。草を入れて、水バ遣ンなされ。あン人が今度来たとき、おはんの虫ケラはもう居りもさぬ、というのは人間の信義にかかわりもそ」。そして、吉井は龍馬の鈴虫の世話係になり、一匹目が死ねば二匹目を入れ、龍馬が次に薩摩藩邸を訪れたとき、虫籠の中では三代目が音色を立てていた。初代は三日で死に、慌てた西郷が吉井に指示をする。「幸輔どん、坂本サンが来れば困る。納戸の者にそう言うて、鈴虫を一匹、獲らせて賜ンせ」。