片山祐輔の事件について、一部で、自分が冤罪に巻き込まれる可能性を考えろという意見が出回っている。自己正当化の言い訳に余念のない擁護派の主張は、弁護団や江川紹子は冤罪廃絶のために尽力したのであり、市民は彼らの貢献に感謝すべきで、批判する理由はないというものだ。私は、この詭弁の説教には肯首できない。普通に暮らしている市民は、言われるように警察の誤認逮捕で冤罪に巻き込まれる可能性もあるが、同時に、片山祐輔のような愉快犯によって標的にされ、ウィルスを仕込まれてPCを乗っ取られ、身に覚えのない「脅迫」や「殺害予告」の実行犯に仕立て上げられることもある。どちらも深刻なリスクだ。もし、この事件が今回のような方向に展開せず、江川紹子らの運動が実って無罪判決となり、検察が控訴断念に追い込まれ、片山祐輔が悠然と娑婆に出て活動する事態になっていれば、必ずこの男は次の犯行に出ただろうし、この種のプログラムの改作に精を出し、誰かを毒牙にかけ、新たな被害者を生んでいたことだろう。そのときは、最早、誰も真犯人が片山祐輔だとは疑わない。片山祐輔があのまま無罪放免になっていたら、一体どんな恐ろしいことになっていたことか。確かに冤罪は忌まわしい権力犯罪で、冤罪を防ぐ制度に日本の司法を変える必要がある。だが、市民の敵は冤罪だけではない。市民の利益の立場から比較衡量したときに、冤罪の恐怖だけが一方的に喧伝される議論は正しくない。