セウォル号の事故で、韓国の社会がひどく傷つき動揺している。その様子が、昨夜(4/30)のNHKのニュースで紹介されていた。韓国の人々はとてもプライドが高く、その分、失敗や失態のときに大きく傷つき、それを自虐的な表現や態度であらわす性向を持っている。「
三流国家」という新聞の論調もそうだろう。韓国らしいなと思って見ながら、その韓国社会の傷つき方に、何か、一つの救いと言うか、社会全体の精神の純粋さのようなものを感じ、そこに考え入ってしまう。官僚主義でボロボロになった行政、無責任で何も有効な対処ができない救助当局、拝金主義の窮極と倫理の崩壊、格差社会の不条理。その犠牲になって海に沈んだ子どもたち。韓国の人々は、自分がどうすることもできなかった無力感に苛まれ、このような社会や国家に至ったことの絶望感に打ちひしがれている。丸山真男が「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」で残した言葉、「そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の反面をなしている」という「精神の弁証法」(岩波文庫P.321)の話を思い出す。「自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出して行く生き方」(同 P.322)の意義を丸山真男は説いた。韓国の人々が、絶望の中から社会のあり方を根本的に反省し、人の生命と安全が最重視される社会へと改造することを期待したい。その「革命」に希望を見出したい。