昨日(10/6)のTBSサンデーモーニングの「風をよむ」で、山崎豊子の訃報と追悼がテーマに取り上げられていた。このことは、ほぼ事前に予想できたことで、2007年の「華麗なる一族」、2012年の「運命の人」と、TBSは山崎豊子のお世話になっている。加えて、山崎豊子は毎日大阪の元記者だ。この1週間のニュースを睨んで、「風をよむ」でこの企画を組まれるのは自然の成り行きに見えた。そこで発されたメッセージは、山崎豊子は現代史の真実を教えてくれたという総括で、佐藤忠男が登場し、山崎豊子の偉業と功績が讃えられた。最近の作家は、面白ければそれでいいという、時代の風潮に乗った安易な作風に流れていて、今こそ山崎豊子的な作家が登場しなくてはいけないと訴えていた。関口宏も、スタジオのコメンテーターも、その一般論に軽く頷き、山崎豊子的な「社会派」の作品が必要だと声を揃えた。田中優子は、そうした「社会派」を市場が需要していて、出現すれば消費者が積極的に支えるはずだと語っていた。見ながら、多くの視聴者はこの「風をよむ」の議論に共感し、納得したことだろう。けれども、私には違和感と抵抗感が残った。軽薄すぎる。1週間前に
記事で指摘したような問題意識は、この「風をよむ」の中には微塵もない。「山崎豊子は社会派だった。社会派の作家が今いない。今こそ社会派が必要で、出れば必ず市場で売れる」。そういう認識と発想でいいのだろうか。違う。根本的に現状を見誤っている。