昨日(10/22)の新聞の
1面記事は、「武器輸出三原則見直し」だった。今日の紙面には、「秘密保護法案を与党会議が了承」の
記事が4面に載っている。毎日毎日、怒涛の勢いで戦争に近づいている情勢がマスコミ報道で知らされる。「ローザ・ルクセンブルク」の
映画と重なり、凄然とした気分にさせられる。きっと、戦前の一時期、きっと誰かがこんなことを日記に書いていた。そういう作家がいたような気がする。さて、「戦前」とは、いつからいつまでを言うのだろう。定義は定かでない。「戦中」は日中戦争(1937年)からだろうか、それとも太平洋戦争(1941年)からだろうか。ずっと昔は、「戦前」の通念は後者だった。私が中学2年のときの社会科(歴史)の教科書では、それは日中戦争ではなく日華事変であり、事変は戦争ではないという判別からか、1930年代は「戦前」として認識していたように記憶する。私の中の「戦前」のイメージは、向田邦子のドラマが描く社会空間である。黒柳徹子がナレーションし、加藤治子が母親役で出演し、少女の妹役が主人公で、そして必ず、物語の中にハンチング帽をかぶった特高が不気味に登場する、あの向田邦子のドラマの風景だ。ところが、1970年代後半あたりから「15年戦争」という言葉が言われ始め、日中戦争の語が定着し、それに伴って「戦前」の観念ももっと前に遡るようになった。が、どうやら、よく考えれば、その時代区分(歴史認識)も少しおかしいことに気づく。