昨日(9/6)、小沢一郎は高知県
須崎市で街頭演説を行っている。須崎には国の重要港湾に指定された港があり、大型船が着岸係留できる深度と設備を持つ。慶応3年(1867年)、
イカルス号事件の土佐談判はこの須崎港内の船上で行われ、8月上旬の数日間、須崎は日本史の大舞台となった。パークスとサトウを乗せた英艦バジリスク号、平山敬忠(外国奉行)と戸川忠愛(大目付)を乗せた幕艦回天丸、そして龍馬と佐々木高行を乗せた三邦丸が次々と入港して投錨。そこに藩全権の後藤象二郎が城下から到着、港内に停泊する藩船夕顔の船上で談判が行われる。土佐藩の所有する艦船には、容堂の趣味で源氏物語の巻名が付されていた。他に、空蝉、若紫、横笛など。英土幕3者で行われた2日間の審議と交渉は決着せず、英水兵殺害事件が起きた現地長崎での再交渉へと持ち越しになる。その長崎談判の訊問の場で、若い
サトウと龍馬が激突して息詰まる論戦の火花を散らした。この時期、大政奉還へと詰める政局の重要時期で、武力倒幕に突き進む薩長と龍馬との間に微妙な温度差が生じていた。6年ぶりに見る土佐の地の前で、龍馬は海上にあったまま上陸を果たせず、船内から権平に手紙を書き送っている。同じ8月の下旬、龍馬はようやく浦戸に入港、上町の坂本家に戻って一家団欒の時を過ごす。それが家族との永訣となった。このとき龍馬が運んで渡したライフル銃1300丁で、土佐藩は洋式軍を編成して戊辰戦争を転戦する。