龍馬の脱藩は文久2年(1862年)の3月24日。ドラマは4分の1を終えたところだが、龍馬の残りの人生はあと5年しかない。脱藩のルートは諸説あるが、最も有力とされているのは次の経路である。神田の
和霊神社に詣でた後、朝倉から伊野を通って佐川へ、そこから南下して
朽木峠を越えて東津野に抜け、
梼原の那須俊平宅で一泊。翌日、四万川から松ヶ峠の番所を破り、国境の峻険な韮ヶ峠を越えて伊予(大洲藩領)に入国、泉ヶ峠(河辺)の宿場で一泊した後、
宿間(内子)から肱川河口の長浜の港に出て、海路を下関へ向かったとする道筋。道中を供にしたのは沢村惣之丞だが、高知から梼原までは那須信吾が、そして梼原から宿間までは信吾の義父の那須俊平が道案内を務めている。高知から梼原まで64キロ。那須信吾はこの距離を一日で歩いていた。道路が舗装され拡幅された今でも、高知から梼原を一日で歩くというのは考えられない。当時の朽木峠超えの山道はさらに難渋しただろう。人間離れした神業だ。また、土地勘のある者が同伴しないと、朽木峠をショートカットして梼原に至るコースは選べないと思われる。歴史作家が作品に描いた脱藩ルートも様々である。津本陽の小説では、仁淀川西岸の新居村で沢村惣之丞と落ち合い、宇佐の港から小舟で
横浪三里を渡って須崎に上陸、そこから梼原をめざしている(集英社文庫 第二巻 P.228)。須崎からは新荘川を遡る
梼原街道がある。この行程の方が、朽木峠を越えるより便利で時間も短縮できるかも知れない。