事業仕分けの政治劇において見落としてはならないのは、事業仕分けの判断基準や事業見直しの理由づけがスリカエられている点である。「無駄な事業」の意味が巧妙に変質させられている。当初の新政権の説明では、官僚の無駄を摘出して削減するのが事業仕分けであった。ところが、現在市ヶ谷の国立印刷局(財務省)体育館で行われている事業仕分けでは、仕分けの対象にされている理由は、(1)赤字で採算性が悪い、(2)費用対効果が十分でない、(3)民間に任せられる、等々である。厚労省の「若者自立塾」や文科省の「子ども読書推進活動」の事業は、この基準と論理が適用されて廃止が宣告され、
毛利衛の「科学未来館」や
田中耕一の「先端計測分析技術・機器開発」の事業も予算の削減が判決された。テレビで何度も映像紹介された毛利衛の反論は、この事業仕分けにおける「無駄」の基準の欺瞞の本質を見事に暴露している。要するに、財務省と仕分け人が喧しく言っているのは、国の事業というのは儲からなくてはならず、黒字を出して利益を上げろという主張に他ならない。逆ではないか。採算に合う事業ではないから国がやっているのである。今回の事業仕分けを支配しているクライテリアは、受益者に負担させ、国の持ち出しを減らし、社会保障や文教予算を縮減して身軽になろうとする「小さな政府」の論理と志向である。官僚の無駄を削るはずの仕分けが、国民の生活や国家の未来を削る仕分けに転化している。